神仏習合について浄土真宗本願寺派ではどの様に考えますか。

私見ですが、他力本願の阿弥陀信仰を持つことと神社に祀られている神々を拝むことが両立しないと考えることは明らかですが、浄土真宗の鎌倉新仏教は一神教に近い性格を持っていて、他の宗派とは激しく対立しました。特に、善鸞義絶事件の様に、関東での布教は大変困難であったと思います。一般的に、門徒が氏子になることはあり得ないというのが当たり前の筈なのですが、その後の歴史を見れば、そうはなっておらず、氏子の中に門徒がいてもおかしくないどころか、氏子と門徒は文句なく共存できるというのが現在までの実際の姿で、それが「神仏習合」として、今日まで、現存しているのが現状です。以上、宜しくお願いします。(70代~・男性)

安邉 泰教(あべ たいきょう)
40代 山口県出身
前向きになる方法のひとつとしては

浄土真宗では、阿弥陀仏一仏をご本尊として仰ぎ、他の神仏に手を合わせることはありません。では、神仏習合を完全に否定しているのかというと、必ずしもそうとは言い切れません。
親鸞聖人のご事績として、本願寺第3代宗主の覚如上人が「御伝鈔」という絵巻物を著されました。そのなかでこんなエピソードがあります。親鸞聖人が関東から京都へお戻りになる際、箱根の山を通られました。箱根の山中には箱根神社があり、社人が神社をお守りしています。社人が就寝中、権現様のお告げでこれから大切な客人が来られるから、精一杯のおもてなしをするように言われます。目を覚ますとそこへ親鸞聖人がお越しになり、社人がお告げのとおりに丁重におもてなしをしたそうです。
浄土真宗では、神祇を軽視することはなく、むしろ他の神仏が念仏者を護ってくださるといただきますので、氏子や門徒に限らずすべての人びとが共存できる立場にあるのです。

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