【松本智量のようこそ、仏教シネマへ】グラン・トリノ

Welcome, to a Buddhist movie.
「仏教と関わりがある映画」や「深読みすれば仏教的な映画」などを〝仏教シネマ〟と称して取り上げていくコラムです。気軽にお読みください。

第63回映画「グラン・トリノ」
クリント・イーストウッド監督 2009年アメリカ映画

 時は2000年代のアメリカ。主人公ウォルトは、現役時代はフォードの熟練工でした。彼の妻の葬式から、物語は始まります。

 一人暮らしとなったウォルトが住む地区は、かつて自動車産業で栄えていましたが今は治安は悪く、住民はアジア系移民ばかりになりました。彼らを毛嫌いしていたウォルトでしたが、隣人の少年タオを不良グループから助けたことから、タオの親族であるモン族の人びとと交流を持つようになり、ウォルトの認識は変わっていきます。

 この作品は、「他文化・他民族・他世代との断絶と共生」「貧困」「老い」「家族」「男らしさ・女らしさ」「成長」「罪」「戦争」「憎悪・暴力の連鎖」「被害・加害の超克」など多くのテーマがてんこ盛りな中、見逃せないのが「人の救い」という問題。

 ウォルトの妻の死後、妻から頼まれたとして若い神父がウォルトのもとへ通うようになります。ウォルトは従軍時の殺傷行為をずっと重荷にしながら一人で背負い、それが彼を孤独にしていると妻は心配していたのです。

 「生と死について考えましょう」と言う神父に「あんたに死の何が分かる。俺は朝鮮で経験してきたんだ」と吐き捨てるウォルト。神父はそれ対して「なるほど。では生についてはどうですか」。ウォルトは絶句します。自分には、語るべき生があるのかと。

 また、「命ぜられて人を殺めた人たちも、神の前でそれを認めることで重荷を下ろしてきた」と説く神父に対し、ウォルトは静かに応えます。「最後まで人を苦しめるのは、命ぜられてしたことじゃない」。神父は返すことばがありませんでした。

 しかし、神父との対話はウォルトの何かを変えていきます。神父もウォルトとの対話で変わっていきます。この作品は、宗教のことばは答えではなく、問いとして作用することを教えてくれてもいるのです。

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