【法話】受験に失敗したら……

少年の不安

「ばあちゃん。ぼく、高校に落ちたらどうしよう……?」
「ほうじゃのう……。でも、心配せんでええ。その時はもう一つ二つ受けて、受かった所へ入れてもろうて、勉強しんさい」
「全部落ちたら、どうするん……?」
「ハハハ、全部落ちたら……か。その時は、社会へ出て働いたらええ。社会に出ても、勉強はできる。生き方は、なんぼでもある!」

 その時、少年は、少しだけ、合格できなくても、自分自身と向き合って、前に進むことができる力強さを感じたのでした。

 今年もまた、受験シーズンが近づきます。多くの子どもたち……だけでなく、私たちの人生は大人になっても資格試験・技能試験・昇格試験……と、受験のくり返しです。その中で、いつの間にか「合格」することにしか意味を見出せない生き方になってしまっているんですね。「生き方は、なんぼでもある!」のに。

 「ばあちゃん……」と不安を打ち明けた少年も、大人になり、34 歳の時に貯金を2年間の夜間学校につぎ込んで、ある国家試験を受験しました。結果は、不合格でした。その時、どうしても思ってしまうんです。 
「自分って、ダメだな」
自分の心が、自分自身を「ダメだ」と思い込んでしまうのです。自分を見捨てようとするのは、世間よりも自分の内側にありました。

お念仏の大地を歩む

 受験を控えるご家族の皆さん、いっしょにお寺の本堂に座ってみませんか。

 「落ちたらどうしよう……」

 愚痴をこぼしてもかまいません。「どうか受かりますように……」という願いもあるでしょう。慈悲の如来は、私たちの弱き思いを、ちゃんと聞いてくださいます。ただ「聞いてくださる」とは、受け入れ包んでくださるのであり、願いを叶えてくださるのとは少し違いますね。

 「じゃあ、何のために座るの?」

 私の人生に、絶望なき大地が開かれていることを聞くのです。阿弥陀如来のお姿は「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」( 摂(おさ)め取って捨てず)という教えが表されています。「ダメ」と思う私に「ダメじゃないよ」と喚(よ)びかけてくださる。失敗も、人生全体つながりの上で私の深さとなります。悲しみも、隣の人に寄り添う心となり、後から来る人の道しるべ・教訓となって広がっています。そのつながりに、私たちも学んできたのです。

 皆さん、「なもあみだぶつ」というお念仏は、私たちの人生を支える大地なのですよ。大地があって、私たちは初めて頑張ることができるのではないでしょうか。阿弥陀如来の摂取不捨なるお姿を仰ぎながら、私は日々、自分自身に語りかけます。「人生には、何一つムダなものはない。だから、今をていねいに歩みます」と。

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