仏教は「評論」ではない だから理屈で考えない
仏さまの話は、人間の理屈で考えると納得できないことがあります。
以前、門徒さんのお宅にお参りに伺った時の話です。一緒に『讃仏(さんぶつ)偈げ』というお経の一節を唱和しました。お参りが終わると、奥さんから質問がありました。
「お経を唱えながら、下に書かれている現代語訳を読んでいたんですが、その中には『自分を犠牲にしても相手を救う』ということが書かれていました。これは、『あなたもそんな風になりなさい』ってことなんですか?」
「いえ、あれは阿弥陀仏の誓いの言葉です。仏さまが、身を投げ出してでも私たちを救うと仰っているんですよ」
「その言葉を私たちが聞くんですか? 聞いたらどうなるんですか?」
「仏さまは、たとい地獄の苦しみの中にあっても、私たちを見捨てないって仰っているんです。その御心を聞いて、私たちは安心するんです。『どんな私であっても見捨てない仏さまがいらっしゃるんだ』と」
「じゃあ、仏さまは悪いことをした人でも捨てないんですか?」
「はい。仏さまは、悪いことをした人も捨てることができないと仰っています」
「えー!」
「だからといって、悪いことを勧めているわけじゃないんですよ。仏さまは悪いことをした人を捨てないという話と、悪いことをしてもいいという話は別の話です」
「でも悪いことをした人も捨てないっていうのは、何か納得がいきません」
「そうですよね。私たちは、この仏さまの話を聞いても納得がいかないんですよ。それは人間の理屈で考えるからです。でも、仏さまの御心を人間の理屈で考えたらダメです。人間の理屈と仏さまの理屈は違います。仏さまの話は、人間の理屈を交えずにそのまま聞くんです」
「ふぅん……」
「人間は賢いですから、物事を論理的に考えます。ところがそのときに私たちはしばしば、私を抜きにして考えてしまうのです。あの人この人の話にしてしまいます。でも、それは評論です。仏さまの話は評論ではありません。私の話なんです」
「あぁ……なるほど」
「悪いことをした人も捨てないという話は、あの人この人の話じゃないんです。たとい私がどんな人間に変わり果てても、仏さまだけは見捨てないという話なんです。人間の世界はすぐに見捨てますよ。『お前がそんな人間だとは思わなかった』とか『あんたを見損なった』とか言うじゃないですか。でも仏さまは違うんです。たとい私がこの世のすべてから見捨てられようとも、仏さまだけは私をお見捨てにならないんです」
話し終えると、奥さんも何か思うところがあったのでしょうか。ゆっくり何度か頷きながら、しばらく考えておられるようでした。
世間の私を見る目は、状況によって変わっていきます。しかし、仏さまが私を見る目は変わることがありません。仏さまはいつでも、慈しみの眼差しで私を拝んでおられます。