築地本願寺新報で毎月連載中の「あっち、こっち、どっち?」エッセイスト酒井順子さんがお届けします。
家にいる時間が長いために掃除や断捨離がゆき届き、
「家がすっかりきれいになった!」
と言う人が多い昨今。掃除が苦手な私の家も、例年よりはマシな状態が保たれています。
そんな中、棚の整理をしている時に発掘されたのが、小学校の卒業文集でした。作文の他にも、同級生全員のニックネームや将来の夢などの一覧表が載っていたのですが、そこで目をひいたのは「友達から見た長所と短所」という欄でした。
自己申告制ではなく、他者からの指摘ですので、客観的な意見がそこには記されています。特に短所の部分には、「ウソつき」とか「人のものをすぐにとる」といったかなりシビアな文言が記されているのであり、人権に対する配慮が強まっている今だったら、この企画はボツになるに違いありません。
ちなみに私のところに書いてある短所は「口が悪い」というもの。嗚呼、まさにその通り。その口の悪さを生かしてこのような職業に就くことを、小学6年生の私はまだ知らない……。
あまりの面白さに文集を熟読しつつ、ふと思ったのは「長所と短所という言葉は、今や時勢に合わなくなってきているのでは」ということでした。言うまでもなく、長所は「良いところ」「優れているところ」で、短所は「悪いところ」「劣っているところ」を意味します。長いことは良いことで、短いことは悪いこと、という意識がそこにはありましょう。
長いとか、大きいとか、広いとか、高いとか。とにかくプラスの方向へと進んでいくことが良いことである、という意識があった時代は、「長所」はまさに「良いところ」であったことと思います。しかし今、プラスの方向へと進み続けることが、必ずしも良いわけではないという意識が高まっています。どんどん肥大していかなくとも、引き算によっても人生を充実させることは可能なのだ、ということを私達は知っている。
そんな時代において、「長所」「短所」という言葉は、もはや他の言い方に置き換えてもよいのではないか。と言うよりも、人の様々な性質を、良いとか悪いとかに分類する必要があるのか。……と、私は思ったのでした。
ちなみに卒業文集において私の「長所」の部分には、「あっさりしている」と書かれていました。確かに私は淡白な性格なのですが、あまりにあっさりしているため物事をすぐに諦めてしまうのが、人生における大きな悩み。「短所」を伸ばして仕事に結びつけたはいいものの、「長所」に首を締められている部分が大きいのです。
そんなわけで、他人から見た長所が本人にとっては苦悩の種であるケースもあれば、短所が意外に役に立つこともありましょう。他人からの評価が、本人にとってはピンとこないこともしばしばあるのであって、長いだの短いだのは、他人の物差しで計らなくてもよいのではないか。
そんな中、強固に「長い方がよい」と思われているのは人の身体の長さ、すなわち身長です。有名人のプロフィールなどでも、男は180センチ、女は170センチを超えると、それが寿(ことほ)ぐべきことのように記されていることがしばしば。短躯(たんく)はせいぜい山椒くらいにしかたとえられないのに対して、長身への手放しの礼賛ぶりを見ると、日本人の「長」への憧れは根強いのかもね、と思うのでした。