「まあ相手の気持ちはよくわかるし、悪気もなかったんだから」と頭の中で人を赦していてもモヤモヤした感情が消えず、自分が偽善者であるような気がして悩んでいます。これは私が凡夫であるがゆえの思いなのでしょうか?(20代・男性)
相手を赦すということは、相手を認めている、関心があるということなので、とても大事なことだと思いますよ。そのうえでモヤモヤした感情が消えないということはやはりその人のことが気になるからでしょうね。
偽善とはうわべをいかにも善人らしく見せかけること、と辞典には出てきます。じゃあ、善人ってどういう人ですかね。いい行いをした人?誰かに優しくした人?いろんなことが言えると思います。
反対に凡夫とはどんな人でしょうね?悪い行いをした人?誰かを悪く言う人?こちらもいろいろあるでしょう。
あなたも、私もみんな凡夫です。いろんなことに妬み、悩み、苦しんでいます。そんな私たちと一緒にいてくださる仏さまがいます。ご質問に答えるとすれば、凡夫であるがゆえの思いだと思います。ただしそれはあなただけではなく、私も同じ。みんな同じような思いを持っています。悩んだ時には思いを打ち明けてください。私たちももちろんですが、仏さまも一緒に聞いてくださいますよ。
私は座右の銘ってほどではありませんが、「世の中そうそう怒らないといけないことなんてない」と思って生きています。人から何か迷惑を被っても、別に怒るようなことはないと思っています。ただ、私は人からよく「怒ってますよね」って言われてしまいます。心の中では怒るようなことないと思っていても、私も質問者様のように、実はもやもやして、態度や振る舞いに出てしまっているのかもしれません。
仏法では囚われの心、「煩悩」から脱却し心穏やかに生きることを目指します。あまり心に波風を立ててはいけないとされる教えです。ただ、その境地に至れる人はいいんですが、我々はなかなかそうは出来ませんよね。赦そう赦そうとしても、どうしても煩悩が盛んな凡夫であるから「仏さまのように」はいきません。
現在の御門主様である専如門主は、私たちに向けたご法話の中で「仏さまのように」生活しましょうとお話くださっています。どうしても「仏さまのように」人を赦すことができない私たちですが、なるべく「仏さまのように」と自分を律することが、仏教を聞くものの姿であることを、御門主様は教えてくださっているのだと、私は理解しています。
その姿を偽善者というのであれば、我々は偽善者でいいんじゃないでしょうか。