生きている意味がわからない

最近生きている意味がわからない。けど、だから生きるのだろうと思いますが、時に身体を休める為に本山参拝をしたりしますが、それをすると今自分がしていることが嫌になってきます。日々ひぐらしを送りながら嫌な事しか出来ない自分が嫌になります。
どうしたら変われるかと仏教書を読みながら自分を探しています。相談という愚痴を書いてすみません。
愚痴 瞋恚 貪欲。逃げられませんね(40代・男性)

青木 永生(あおき ようせい)
30代 栃木県出身
「応え」を探し続けていくもの

正直私も分かっていません。きっと生きる意味って人それぞれ見出していくものなのでしょうね。
私は仏教徒であります。それゆえに「私は仏さまとならせていただくために生きている」というのが一つのピラミッドの頂点にある究極的な答えです。しかしこの「答え」に到達する中に様々な「応え」があると先輩のお坊さんから教わりました。
色々な人と語らってみる、色々な本に問うてみる、もちろん仏法にもですが、その中で私自身の生きる意味を発見していく、「応え」を探し続けていくものなのだと思います。すぐに見つかることもあるだろうし、ずっと探し続けるのかもしれないし、やった、見つかったぜ!と思ってもまたすぐに変わってしまうこともあるかもしれない。そんなこんなを重ねながら生きる意味の「応え」を見つけていくのではないでしょうか。
お釈迦様のご遺言とされる教えに「自らを灯火(ともしび)とし、法を灯火(ともしび)とせよ」といった教えがあります。生きる意味は自分で見つけ出していかなければならない、でもなかなか見つけ出すのは困難です。だからこそ、お釈迦様は「法を灯火にせよ」とその解決のヒントを教えてくださったのだと味わっています。
相談という愚痴……。見る人によっては愚痴ではなく智慧になっているかもしれませんね。

戸見嶋 淳昭(とみしま じゅんしょう)
40代 山口県出身
そのまんまでいい

生きている意味が分からないと考えられることが、意味のある生ではないでしょうか。嫌なこと、嫌になる気持ちがあるのが人たる証拠ではないですか。
貪欲(むさぼり)、瞋恚(しんい=いかり)、愚痴(おろかさ)は私たちが人間である以上、拭い去ることはできません。でもそんな私たちのことを見ていてくださり、そのまんまでいいんだよと働きかけてくださるのが阿弥陀如来さまです。その仏さまの教えに触れることは大変にありがたいことだと思います。
どういったきっかけで仏縁に触れていただくかは人それぞれです。私の場合には、ご門徒さんから観無量寿経のことを尋ねられたのに、お答えすることができず、浄土三部経についてほとんど知らないと知らされたことをきっかけに本を読むことにしました。ご本山にお参りいただく、仏教書を読んでみる、いろんなきっかけ、ご縁がありますが、あなたはあなたのままでいいんだよ。そのまんまでいいんだよ。このことをぜひお心にお持ちいただきながら日々の日暮らしをお送りくださいね。

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