ガンで入院中の友人がいます。

ガンで入院中の友人がいます。早くにご両親を亡くし、また独特な感性の持ち主で「不思議ちゃん」扱いされるせいか、彼女にとって友人らしい友人は私しかおりません。学生時代から10年間入退院を繰り返しているので、また元気になってほしい気持ちもありつつ、覚悟もしなければならないとも考えています。
その友人からの連絡が時々重たく感じることがあります。闘病の影響で頭痛が酷く文字が読めず、手足にも麻痺が出てスプーンも握れない。そうなると私と電話をすることが唯一の楽しみなのだそうです。会話自体は他愛のない雑談がほとんどですが、死を色濃く感じてしまうためか、たまにひどく疲れてしまいます。
友人と向き合っていると、自分がひどく利己的で冷淡な人間に思えてしまいます。折に触れ「優しいね」「ありがとう」と言ってくれるのですが、私はそんなふうにお礼を言われるような立派な人間ではないのです。友人からの連絡を正直面倒くさいなと感じてしまうこともあります。
友人の楽しみを奪ったり、今日が最後かもしれないと覚悟をすることができないなら、「優しい」と信じてくれる嘘を貫き通すべきでしょうか。その場合、私の苦しみは嘘つきの業として背負うしかないのでしょうか。(30代・女性)

戸見嶋 淳昭(とみしま じゅんしょう)
40代 山口県出身
思いを一人で背負わないで

ご友人にとって、あなたがとても支えになっておられるんですね。だからこそ「ありがとう」「優しいね」の言葉が出てくるのだと思います。ご自身では、自分は冷淡な人間に思えてしまうとおっしゃっていますが、お話を聴かせていただいている私は、ご友人が思われているのと同様に、すごく優しい方だなと思います。
この相談に対して、どうお答えしようかと何度も文章を読み返しては、コメントを考えていますが、読み返すたびに涙が出てきます。友人の方もお辛いでしょうが、お話を聴いてあげている、あなたもすごくお辛いだろうと思います。
私たちがよく使う言葉で「傾聴する」という言葉があります。全身でその人の言っていることを受け止めるということです。他愛のない話でも、聴いている本人からするとすごく重く感じてしまうこともあると思います。ご友人は話をすることで気持ちが少し楽になっているかもしれないですが、あなたにとってはすごくお辛いことかもしれません。
仏さまは、私たちに「私がそばにいるよ」と語りかけてくださいます。話を聴いてあげている、ご友人に寄り添ってあげているあなたは、ご友人からしても、そしていま相談を受けている私からしても、そんな仏さまのように思えます。
でも、もしそんな風に思えず、自分が嫌な人間だと思ったときには、自分の辛い思いを私たち僧侶にぶつけてください。私たちがお話を聴くことで、私たちに話してくださることで、少しでも気持ちが楽になれるのであれば、いつでもお話を聴かせていただきます。あなたは一人ではないですよ。私たちはあなたのそばにいます。いつでもここでお応えします。思いを一人で背負うことはしなくてよいです。私たちに打ち明けて、重さを分けていきましょう。いつでも聴きますよ。

0

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA