お墓を持たない選択をする人について、お坊さんはどう思われますか

私は独身で先の人生への不安が多かったのですが、様々な終活サポートを行っている築地本願寺倶楽部の存在を知って大変救われた気持ちになり、先日は合同墓を申し込み、安心した気持ちになりました。ここで質問です。お墓を持たない選択をする人も増えています。これについて、お坊さんはどう思われますか? (70代・男性)

酒井淳昭
西照寺住職
お弟子によって造られた親鸞聖人のお墓の意味

合同墓にお申し込みいただき安心されたとのこと、なによりと存じます。
人間は未来に対する想像力を持つことによって文明を発展させてきましたが、それと同時に将来に対する不安をいだくようになりました。
墓を持たないという選択ということですが、浄土真宗の信仰を持つ一部の地域では墓を持たず、遺骨の一部を親鸞聖人の御廟に納めてきたことが知られています。
親鸞聖人が自らの遺骸を賀茂川に流すように仰ったという記録も残っていますが、聖人を慕うお弟子達によって京都の東山大谷にお墓が造られました。そのお墓がいまの本願寺へと発展していきます。本願寺に御影堂という親鸞聖人のお像を安置するお堂があるのもそうしたことに由来しています。
墓には残された者が亡き方を偲ぶ場としての意味もあると私は思います。

小柴隆幸
隆照寺住職
お墓は亡き方に会える場所

拙の預かる寺で、こんな出来事がありました。境内に墓所のある方が亡くなったのです。後継の方はありません。従前からの約束で、合同墓へと遺骨を遷す事になりました。それから数年経ちました。ある日、寺を訪れた客人が先の方を名指して墓所を訊ねられたのです。合同墓へと案内した途端、熱のこもった声で墓標へと語りかけます。しばしの時を過ごされた帰り際、涙を湛えながら「会えてよかった」とご挨拶下さいました。お釈迦さまは「遺骨の供養にかかずらうな」と説き、親鸞さまは「閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし」と遺言されました。しかし、お釈迦さまのお墓をよすがとして仏教は世界にひろまり、親鸞さまのお墓をたよりとして私たちは浄土真宗に遇えました。

相馬顕子
築地本願寺僧侶
お墓は人生を安心に過ごす助け

お墓を物と考えた時、持っていても持っていなくても、どちらでも構わないと私は思っています。例えば、車と運転免許を持っていればドライブを楽しめる一方で、車を購入するにも維持するにもお金がかかって大変、という側面もあります。あればあったで、なければないで、自分を楽しませたり苦しませたりします。お墓も同じで、あってもなくてもいい、しかし、お墓があることで人生を安心して過ごせるのであれば、持つ意味があるといえるのではないでしょうか。
ご相談者さまは、「合同墓を申し込み、本当に安心した」とおっしゃっておられます。私は、それが何より大事なことであると思います。僧侶が仏教を拡めたいと思うのは、この世を少しでも安心・満足に過ごせる人を増やしたいと思うからです。お墓がその助けになるのであれば、お墓を持つことは、その方にとっての安心を増やすことであり、喜ばしいことと思います。

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