世の中の変化が目まぐるしくて、毎日が不安です。お寺では「阿弥陀さまが救ってくださる」と教えられますが、姿が見えないし声も聞こえない阿弥陀さまをどうやって信じたらいいのでしょうか?(10代・男性)
夏の季節そのものって見えますか?聞こえますか?見えないですし、聞こえないですね。でも私たちは夏の季節を疑わずに生きています。どうしてでしょうか。
なぜなら、夏そのものは見えなくとも、夏は「はたらき」となって届いているからです。散歩をすると、強い日差しに照らされ、セミの鳴き声が聞こえてきます。もしかしたら、ヒマワリやアサガオ、アジサイなんかが咲いてるかもしれませんね。
こんな風に夏は「はたらき」として、さまざまな姿や音となって私たちに夏を告げます。夏をいつ感じるかはそれぞれあるでしょうが、夏はどんな人にも「はたらき」となって届きます。
阿弥陀さまも同じです。探しても見つかりません。しかし、間違いなく私たちに「はたらき」として届いています。あなたがお寺にお参りするのも、お念仏をするのも、疑問を持つことも、ひとつひとつが仏さまの「はたらき」が届いている証拠です。
その通り。目の前に姿があって、声が聞けたら話は早いですよねえ。
少し逸れますが、この数カ月、当たり前の日常がどれほど貴重であったかと感じませんでしたか?遊びに行ったとして、行った先でどれほどの人が迎えていてくれていたのか、表面では分からない人々のなんと多いことか。私が楽しむために、私を支えてくれていたわけですよ。
実は、浄土真宗では信じたから救われるとはいいません。「気がついたら仏のはたらきの中にいた」と受け止めることを「信」と言います。なぜそんなことが言えるのか、それは「他力」の教えだからです。
作家の五木寛之さんがおっしゃったことばに「わがはからいにあらず」というのがあります。これはどうしようもないとあきらめるのではなく、自分でないものに支えられているという自覚なのだと思います。
短いご質問の中に複数の疑問が同居しています。少し補足してみますね。「毎日の変化が不安だ。それを阿弥陀さまが救うと聞いた。救うとはこの不安を解消することだろう。でもそのためには阿弥陀さまという存在があることを信ずることがまず必要とは思うが、それができない」ということでよろしいでしょうか。
不安を消したいという思いが、阿弥陀さまを信じられないという別の不安を生んでいます。不安は解消しようとするほどに増殖する性質があるようです。しかし、不安を忌み嫌わずに相対してみると、案外味な面も見えるかもしれません。その一連の動きを阿弥陀さまはご覧です。