どうすれば頑張って(努力して)、人に認めて貰えるような成果を出せるのでしょうか。

その人が頑張っているか頑張っていないかは一体誰が決める事なのでしょうか。

私は高校生で、自分なりにいままで勉強や学校生活、将来の夢の為の勉強も頑張ってきました。頑張れない時もあって、そんな時は敬愛するアーティストの音楽や言葉を聴いたりして少しずつですが前に進んでこれました。

でも、

私を見た一部の大人はお前は頑張っていない、そのままじゃ将来何も出来ないぞ、とばかりに言ってきます。

私は頑張っているつもりで何も頑張っていないのでしょうか。どうすれば頑張って(努力して)、人に認めて貰えるような成果を出せるのでしょうか。

どの様な心意気でいれば良いのですか。

文章にまとまりが無くて申し訳ございません。(10代・女性)

青木 永世(あおき ようせい)
30代 栃木県出身
あなたの言葉に胸を打たれました。

仏教的にいうと、その人が頑張っているかどうかを決めるのは、その人自身です。
例えば、日本では東京大学に合格すれば一定数の人は努力を認めてくれる気がしますよね。しかし、2022年の世界大学ランキングでは東京大学は35位です。そのため世界に目を向けると、ランキング1位のオックスフォード大学に合格することが努力の成果だという価値感を持つ人もいるでしょう。その人が評価すると、たとえ東京大学に合格したとしても、努力は認めてもらいづらいかもしれません。このように、その人が頑張っているかどうかを判断する基準は千差万別で、その人その人の価値観で頑張ったかどうかは決められます。
今の世の中はあまりにも他人の評価を気にしすぎる社会になっているように感じます。他人の評価は時にはモチベーションに繋がります。しかし、他人の不確かな評価を追い求めるよりも、将来の夢のために頑張っている自分を深く見つめてみる、自分の日々の小さな努力も見逃さず褒めてあげる。頑張れなかったときは頑張れなかった自分に丁寧に目を向けてみてはどうでしょうか。
お釈迦様の言葉に、「犀の角のようにただ独り歩め。」という言葉があります。これは「犀の角が一つしかないように、求道者は、他の人々からの評判に煩わされることなく、ただひとりでも、自分の確信にしたがって暮らすようにせよ。」という意味です。
少なくとも私は将来の夢の為に勉強しているというあなたの言葉に胸を打たれました。ですから他人の評価を気にしすぎることはないと思います。仏教にはこういう考え方もあるんだと、参考になればと思います。

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