信心と願掛け

この春、仕事上、不本意なポジションになりました。以前から噂があり、なんとか避けようと、仕事の上では確かな実績をあげたにも関わらず、諸々の社内事情によりです。なぜ自分がとやるせない思いでいっぱいです。

普段から寺社にお参りすることが好きで、縁ある神仏に願掛けをしておりました。願いが叶わなかった今、祈願とは何なんだろうと悩んであります。

お参りの時は、願わない方が良いのか?やはり感謝申し上げるだげが良いのか?でも願いごとの祈祷や神仏もいらっしゃるしと……。

一昨年の4月、築地本願寺で頂いた法語に「願わなくても花は咲き、願っても花は散る」の言葉か引っかかり……。

神仏の御前で手を合わせながら、悩んでおります。(40代・男性)

平井 裕善(ひらい ゆうぜん)
40代 大阪系山梨人
願いというより煩悩なのかもしれません。

「仕事上、不本意なポジション」……。これは、僧侶の世界にもあります。自分が望むお役をしたくても、なかなか希望通りに叶うことはありません。そういった時のやるせない気持ちはすごくわかります。
さて、神仏へ願いをかけるというのは、私たちの身近でよく聞くことがあります。「○○成就のためにお参りする!」という人も多数でしょう。例えば「大学合格祈願」という願いですが、もしその人の願いが叶ったとすると、他の人が不合格になっているかもしれません。「自分だけが合格すればいいんだ!」という思いは、願いというより煩悩なのかもしれません。
佛さまの智慧と慈悲のはたらきは煩悩を充足させるものでなく、煩悩に迷う私達に「そのようなアナタだから、私が救う。そのまま救う、必ず救う」としてあるものです。
ちなみに、私は毎日のように佛前にてお勤めをしておりますが、冒頭のように不本意なことが多々ある悩み多き僧侶のままです。

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