私は人生の最後には築地本願寺の合同墓に入りナモアミダブツと唱え、阿弥陀様についていきたいと思っています。
宗派によって違いがあるのかと思いますが、お坊様は、修行も、宗教的学問や歴史の勉強は同じなのに、人としての考えの違いなのか、差を感じます。
本願寺さんお西さんは、にこやかな人が多いですがそのさは、どうしてなのかなと不思議なのですが教えてください。(70代・女性)
私たちはいのちある限り、人であることに変わりはありません。こうして回答を書いている私もやはり人です。人は煩悩を抱えて生きています。
悩み、苦しみ、いろんな難題にぶつかるのが私たちです。お他宗でいう修行をするということは、その苦しみ、悩みを取り除いて、仏さまに近づくことを目指していることでしょう。だからこそ、その悩みが取り除かれないことにさらに苦しみ、悩み、険しいお顔になるのかもしれませんね。私たち浄土真宗では、修行をして仏になるということを言いません。阿弥陀様が私たちを救ってくださるという教えです。私たちはどこまで行っても悩み、苦しみから抜け出せない存在である。そんな私たちを阿弥陀様は救ってくださると教えていただきます。お経典の中に「和顔愛語」(わげんあいご)という言葉があります。笑顔で愛情のこもったお言葉で話すこととあります。私たちの宗派ににこやかな人が多いとおっしゃっていただけること、大変ありがたいお言葉です。先に書いたような和顔愛語の心が染み出ている証拠かなとうれしく思います。ただ、私自身、常に笑顔でいられるかというと、やはりそうではない時もあります。常ににこやか。この心持ちを忘れずにいたいですね。