浄土真宗では運・不運をどの様に考えていますか?

浄土真宗はお守りやお札を否定し、物事は因果に対する応報で起きると考える、最も仏教らしい宗派だと思います。ところで浄土真宗では運・不運をどの様に考えていますか?(50代・男性)

藤井 諦伸(ふじい たいしん)
20代 埼玉県出身
「たまたま」という言葉を使って喜んでおられます。

まずは、一般的に「運」と呼ばれるものを定義を考えてみます。

運とは人智を超越して人に幸、不幸を与える力と思われているのではないでしょうか。
何か起こった事象のことを天から与えられた運命とも言います。
また、良い影響をもたらす巡り合せは「幸運」、悪い結果をもたらす巡り合せは「不運」と言います。
幸運も不運も運命も、どれも人智を超えた存在から与えられたもののように感じられます。
運が上記のようなものであるならば、仏教的に言えるのは下記のようなことだと思います。

仏教には唯識という考え方があります。
あらゆる存在は私の心の中で生じて、展開されていくものという考え方です。
だから不運や幸運も、自分の心でどう捉えるかによって変わってくるものになるでしょう。
起こった出来事に対して、不運か幸運かを決めるのは人智を超えた何かではなく私であると言えます。
つまり、何事も幸運と捉えることもできるし不運と捉えることもできるわけです。

ここにさらに真宗的な解釈を加えてみます。
浄土真宗を開かれた親鸞聖人は自身の先生である法然聖人に出遇い、阿弥陀様の御教えに出会えたことを「たまたま」という言葉を使って喜んでおられます。

「人間として生まれ、阿弥陀様の教えに出会えたことは起こり得ないことかもしれない、でも出会えた私の人生はありがたいものだ」と喜んでおられます。
それは運という言葉を使っていないにしろ、巡り合わせで阿弥陀様の教えに出会えたことは幸運であったと実感されています。

その一般的には幸運と言われるような状態を、浄土真宗では「有難い(ありがたい)」とか「かたじけない」という言葉で表現して喜んでいるのだと思います。

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