亡くなった親に多額の借金があり、精算するため、あらゆる相続手続きとなったようですが、それぞれに抱える問題が大きく、お互い分かりあえず、信頼しあうことが難しい事がわかりました。
ほんの些細なことでも、言い合いとなり、わたしが!やってあげた!と、我を主張するものばかりです。みんな、言ってることは、正しいんです。実際、私たちが背負う意味がないからです。借金を綺麗に精算出来なかった親の責任なんです。
本当は、昔は、楽しかった時もあったかもしれませんが、なにも思い出すことが出来ません。家族であっただろう写真も、本当は、大事な写真かもしれない結婚式の家族写真も、いつしか破って処分しました。恐ろしいのが後悔の気がなく、もっと処分したい気が強く、もともと自分がわからないのに、もっと自分自身がわからなくなりました。いつか、笑って会えるのかどうだか……
今度、家族身内と会うのは、誰かの葬儀の時になるんじゃないかなと思います。(40代・女性)
人の欲望は尽きることがありません。それこそ、私たちは「もっともっと」と求めてしまいます。それが人間であります。いまこうして回答を書いている私も同じ人であります。やはり、「もっともっと」の気持ちは無くなりません。相談者様のお気持ちの奥底まで察すること、お気持ちはわかりますとは簡単には申し上げられません。
ただ、お気持ちを知ることはできます。ご自身がつらい思いをされていて、どうしたらよいのだろうかと悩んでいる。そんなお気持ちを伺い知ることはできます。
私たちが手を合わせお参りさせていただく仏さまは、そんな「もっともっと」の私たちに対して、「私がいるからね、安心しなさいよ」と働きかけてくださる仏さまです。困ったとき、つらいときに寄り添ってくださるのが、仏さまです。
どうか、お気持ちつらくなった時には、仏さまの前にいらしてください。
いつでも、どこでも、どんな時も、おそばにいてくださいます。そのことをお心にいただきながら、日々を送られることを願います。