先日、法話でお盆の目連尊者の話しをお聴きしました。
浄土真宗では亡くなったら阿弥陀様のお働きで、生前の行いに関係なく全ての人が、直ぐに仏になると教わっておりますが、どうして目連尊者の母親は餓鬼道に落ちてしまったのでしょうか?
「息子を溺愛するあまり」とのくだりはお聴きしましたが、生前の行いは関係なく、皆成仏するするのでは無いのでしょうか?
また、皆成仏できるのであれば、そもそも餓鬼道と言うものは、存在しないと思うのですが。(50代・男性)
浄土真宗は信心が往生成仏するための因ですので、生前の行いに関係なくすべての人が直ぐに仏となると言い切ってしまうのは少し語弊があるかもしれません。
私見ですが、盂蘭盆経のお話は餓鬼道に落ちた母親という世界を示すことによって、この私自身が餓鬼のように我欲をむさぼるような生き方をしていないか、我が身を振り返らせようという仏様の思い。また、目連尊者の自分を育ててくれた両親や先祖への感謝の姿を示すことによって、この私自身が感謝をもって生活できているか、我が身を顧みさせよう、という仏様の願い、お慈悲のお心をを読み取るところにこのお経の味わい深い点があると思っています。
餓鬼道のあるなしを論じるのではなく、餓鬼道のような生き方を自分はしていないだろうか、感謝の気持ちを持って生活できているだろうかと、そこを見つめるところにこのお経の生きた味わいがあると思います。